吉兼ほほな です。

今日も、ブログに来てくださってありがとうございます。

私は、自分の容姿について、
物心がついたころから、
自信がありませんでした。

自分の笑顔が嫌い、
自分の目の小ささが嫌い
自分の鼻の形が嫌い

だから、

せめて、
心のきれいな人になろう!
そう思いました。

心のきれいな人ならば、
愛されると思ったのです。

そして、

私にとっては、心のきれいな人=いい人になること
でした。

なので、

親に従ういい子をやり、
わがままを言わず、
怒ったりもせず、
周りの空気を読んで、
客観的に自分の立ち位置を把握して、
人の意見に笑顔で従ういい人

をやり、

寛容で優しい人のふりを
一生懸命やっていました。

でも、心の中は、

自分のダメ出しを日々やり続け、
同様に、口や態度に出しませんでしたが、人をもジャッジし、

寂しさと、モヤモヤとざわざわで、いっぱいでした。

全然、心はきれいじゃなかったです。
ただ、きれいなふりを一生懸命やっていました。

そのことにも気づいていませんでした。

それなのに?それだから?
結果としては、

思った以上に人に好かれている感覚がなく、

「なぜ?私こんなにいい人なのに…何がいけないのだろう?何が足りないのだろう?」
って思っていましたね。

美を捨てた上に、
今思えば、心はドロドロだったんです。。。

そもそも、心がきれい
って、
何をもって、そうだと測れるのでしょうね~・・・???

心理学を勉強して、実践して、
今の私が思うことは、、、

心がきれい
って、
ありのままの自分を受け入れて、

心の感じることを
そのまま感じさせてあげて、

喜怒哀楽を味わうことを
自分に許している人なんじゃないかな?

って思います。

なので、

今の自分の方が、
心理学を勉強する前の自分よりも、

はるかに心が澄んでいるように思います^^;
ひょっとしたら、
それをきれいというのかもしれません。

自分に禁止していることが少ないので、
ドロドロすることがあまりありませんし、

モヤモヤ、ざわざわを感じると、
感じて開放していけるので、
ドロドロしないで済んでいるようです。

そしてね、

自分の容姿のきれいをあきらめてしまうって、
結構、自分をないがしろにしてることになりますよね~

本心は、きれいでいたはずです。

なので、

そもそも、
自分の容姿をないがしろにしてること自体が、
心がよどんでいるという一つの証拠でもあるのかもしれません。

心がきれいでいるためには、
やっぱり自分のきれいをちゃんと追及することも大事ですよね^^

私もやっとこの数年で、
自分をきれいにすることを
私なりにやるようになったのですね~

自分のきれいに気を遣うの、
とっても大事です♡

 

次回は、「自分がきれいでいることにおもいっきり許可を出そう」
という内容の記事を書こうと思います。

今日は、ここまで^^

吉兼ほほな